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何だかんだで半年以上更新を怠ってしまった。この半年は研究室での作業に追われる日々だった。順に追っていくと、9月ごろから研究室での本格的な生活が始まった。去年までのような夏休み気分ではいけない。とは言っても大したことはしていなかった気がする。
10月に入るとボヘの方では演劇が始まり、皆各々の作業で忙しそうにしていた。かく言う私も実験の手順を教えてもらうことで忙しくしていた。初めての雑誌会の準備もあって落ち着かない日々だった。11月も報告会の準備で忙しくしていた。
本番当日に報告会だったが今年は本番が二日あったので二日目の公演は手伝いに行った。今年もコロナの影響で11月祭はオンラインだったので舞台公演も出来ず、結局熊野寮の食堂を借りたのだった。舞台のセッティングなどはKと劇団愉快犯の面々に大変お世話になった。
(ほとんどKが仕事をしていたとの話ではあるが…)。前述の通り研究室の方が忙しくまともに手伝えなかったのは申し訳なかった。今年の脚演はYだったが、彼の元来の精神的な不安定に加え、そのストレスから最後の方は壊れていた。
半ば暴走していたようなものだと思っていたのでこちらからなすすべなく放置してしまった。全体的にコミュニケーション不足だったかなと思う。役者のやりたいこと、演出のやりたいこと、客が求めることのバランスを上手く調整するのは難しい。
今年は役者に一回生が多かったこともあり、演出側の意見が強くなりすぎたきらいがあった。脚本の内容も内省的、個人的な題材であったため、客にどの程度ウケたのか分からない。ちなみに本番は観れなったのでまだ全貌は知らない。
12月の前半は特に何もしていなかった。実験も上手くいかないし、新しいことも出来なったので停滞していた。年末は長野の実家に帰った。もともと日本海に行く旅程があったのでそれに合わせて帰ろうと思っていたのだが、記録的な豪雪のために、
琵琶湖線が止まってしまい、結局名古屋方面に向かった。メンツはYとMの三人。東海道線が大垣終点になってしまったので結局垂井で降りてネカフェで止まった。暗い夜道は雪のおかげで少し明るかった。川沿いを我々の足跡だけが残る。
美しい景色だった。ネカフェは国道沿いだったのでトラックの行き交う情緒のない景色だったが。翌日も雪はやまず、増々深くなった雪道を大垣に向かって歩いた。電車は大垣からしか出ていなかったのでやむなし。名古屋まで出ると味仙で食事をし、
サウナで凍える体を癒し、ベルセルクを読むなどして過ごした。Mは実家が名古屋なのでそこで別れ、Yと私は長野に向かった。疲れていたおかげで電車はあっという間に長野に着いた。騒がしい駅前を過ぎ、大通りを善光寺の方へ。段々と静かに、暗くなっていく。
久々の故郷だった。また、初めて友人を実家に迎えるのだから少し緊張した。風呂を沸かしてくれていたので入る。客人を迎えるために用意してくれたのだろう。ありがたい。軽く晩酌も。
翌日はそばを食い、善光寺に連れて行った。新潟に行くというので長野駅まで送って行った。年末は老人の手伝いをして酒を飲んだら終わってしまった。年始は東京の方に行き、こちらもこちらで老人の相手をした。
ずいぶんとボケてしまっているように感じた。何年か前に祖母が亡くなって以降一人の生活だったことに加え、コロナで外に出る機会も減ったのが原因だろうか。一日ソファで横になり、新聞を読み、興味のなさそうな番組を流し続けている。
食事は取り、煙草を一本吸い、風呂に入って寝る。毎日この生活でよく耐えられるものだ。叔母の帰国していた。が、これまたずいぶんと老け、リベラルに拍車がかかっていた。マスクもワクチンも懐疑的な彼女の話に付き合うのはややしんどかった。
京都に帰ってきてからはそれなりに忙しく充実している。一つ気がかりなことがあるとすれば、これからの話である。先日就活が始まっているが、ボヘで就活しているのは一人だけ、他の人々は研究やらなんやらと働く素振りを見せない。
私はどうだろう。毎日考えては答えが出ず、とにかく目の前の仕事を片づけていく他ない。啓示を、そこまで立派なものでなくても良いからせめて風のような何かに導かれたい。